連載 「公共劇場」へ舵を切る:第七十五回 研究者と現場の不幸な乖離。/可児市文化創造センター

連載 館長 vs 局長	「公共劇場」へ舵を切る その理念と経営の実際

第七十五回 研究者と現場の不幸な乖離。

可児市文化創造センターala館長兼劇場総監督  衛 紀生

先日、京都大学再生医科学研究所の山中伸弥教授のiPS細胞発見までと再生医療という臨床に活用できる研究の格闘とも言えるドキュメンタリーを見ていて、心の底から羨ましいと思った。山中博士は整形外科の臨床医として出発しているのだが、リウマチで身体中の関節が変形して苦しんでいる患者を前にして、このような状態から命の輝きを取り戻すには基礎研究に針路を変えて新薬を生み出す仕事をしなければと決意して、iPS細胞の発見という成果に至ったということだ。山中博士の研究成果が、やがては臨床において多くの難病や完治の望めないとされた患者たちに希望をもたらすことは想像に難くない。

ひるがえって文化芸術分野ではどうだろうか。最近私は文化芸術及び劇場音楽堂等の現場にいる自分を「臨床医」に擬えて考えることがある。芸術各分野における鑑賞者の減少傾向を押しとどめるマーケティング手法の開発必要性、米国型の株主資本主義の蔓延によって「芸術支援」に資金を使う正当性が薄らいで企業メセナ等の民間からの資金調達に付きまとう困難さ、自殺者まで出してしまった劇場音楽堂等の職場環境の劣悪さ、そしてヒューマン・リソース・マネジメントのまったき欠落、指定管理者制度による「サービスの質の向上」を置き去りにした雇用環境の酷さ、全国の劇場音楽堂等の管理職のおそらく90数%が行政からの退職派遣、つまり天下りで占められていて、失敗を怖れるあまり外部環境の「変化」に適応してリスクを取る経営が出来ないことから必然的にハコモノ化している現状等々、現場には多くの病理と業界自体の悪しき生理があり、「臨床」の現場はおのずとどんよりとしたものになってしまう。当然であるが、その為に最終受益者である国民市民に渡される受取価値は品質の劣ったものとなる。

本来はこれら数多ある問題解決の解は、「基礎研究」の専門家である学者研究者によって提案されるものだと私は考える。しかしながら、日本においては文化系の学者研究者と臨床たる現場とのあいだには越えがたい溝があるのが現実である。現場に横たわる様々な困難と障害が学者研究者にはアップロードされないのである。たとえば最近の文化系学会で「行政出資型の財団はすべて廃止して営利法人化すべき」という研究発表をした芸術系大学の教授がいる。彼は「地域アーツカウンシル」の創設推進論者でもあった。私はともに現場の問題解決の視点から言えば「空中闊歩」的な、地に足のついていない空論としか思えない。指定管理者制度によって民間営利法人に文化施設の管理運営に門戸を開いたが、その結果、約15年を経過して何が起こっているのかの検証をしたのだろうか。参入した営利法人の人件費の削減による「ブラック企業化」をどのように総括しているのだろうか。そもそも自治体から出る「仕様書」に問題があるのだが、本来は当該地域の人々に還元されるべき数千万円の税金が主に東京圏に立地する本社に集積されて、その地域には税金が鐚一文支払われないことをどのように整理すれば良いのか。当該自治体はその整理が出来ているのだろうか。民間営利法人による競争原理によって最少の予算で最高のサービスと価値を生み出すという新自由主義的な発想で現在の劇場音楽堂等の抱えている諸矛盾を解決できるというのか。現場が呪縛されている諸問題は、すべてを民間営利法人にすれば解決するというように浅いところにはないのである。

さらに、「地域アーツカウンシル」については、その機関に調査研究機能、政策提言機能、当該エリアの劇場音楽堂等と文化への助成金配布機能を持たせて、それに見合った能力の職員を配したら、おそらく最低でも3億円~5億円程度の予算は必要である。たとえ歳入の多い広域自治体であっても、現況から言えば文化振興にそれだけの額を計上する自治体など皆無である。自治体文化行政の「現状と現実」をしっかり把握しているのか。俯瞰でざっくりとした概観を掴む「鳥の目」ではなく、複眼の「虫の目」で様々な角度から細部にわたって検証しているのか。机の上だけで、あるいは頭の中だけで、あるいはアーツカウンシル先進国を模倣すれば何かが起きるという「山師的な発想」で外部環境を変化させようというのは、甚だ乱暴な、というより粗暴としか言いようのないロジックである。もうこれは出鱈目としか言いようがない。

医学と違って文化芸術は人の生死にとは直結しない。直結しないから何を言っても良いだろうということにはならない。さらに外部環境の変化、たとえば潮の流れや満ち引きを感知する「魚の目」で変化を鋭敏に感受して、それへの対応を研究の重要ファクターに数えているのか。文化庁の大学活用の補助金で民間施設・団体のマーケティングをトレーニングするときに、研究室の助手が舞台芸術のマーケティングにジェローム・マッカーシーの「4P」(製品Product・価格Price・流通Place・販促Promotion)を使って劇団を指導していると聞いて唖然としたことがある。50年前の「生産者主権」の時代のマーケティング理論である。大量生産大量消費時代の工業製品のマーケティング・ミックスである。その後日本では「消費者主権」の時代となり、ましてや舞台芸術の産業特性と製品特性を加味すれば、時代はフィリップ・コトラーの提唱する「マーケティング3.0」、「マーケティング4.0」という顧客との関係づくりの作法を活用しなければ売れない環境になっているのである。しかも、セオドア・レビットのひそみに倣えば、舞台芸術は「良い経験を提供します」という「誓約」を売っているのである。そのうえ「情報の非対称性」という逃れようのない商品特性を抱えながらである。

学者研究者は現場の問題解決に関わり、そこから研究を出発させるべきである。それが基礎研究の原点ではないか。「鳥の目」だけではなく、「虫の目」と「魚の目」で細部と変化を吟味しながら課題解決の処方箋を書き、提案すべきではないかと思う。医学で基礎研究と臨床が乖離していたら大問題であるばかりか、患者をみすみす殺してしまうことになるだろう。文化芸術とて、今日のように劇場音楽堂等や文化芸術の社会包摂機能と社会的価値が問われる時代なのである。「社会的処方箋」として文化芸術の社会包摂機能が多くの国民市民が必要とする時代なのである。文化芸術における学者研究者と現場との乖離と連携の機能不全は、人間の尊厳を毀損にまかせるような文化政策の不在と、それに因るざらついた社会の到来と文化芸術の果実を一部の特権階級の独占物としてしまう事態を招来することになると私は思っている。劇場音楽堂等や芸術団体の現場は無論の事だが、芸術系及び文化系の研究者にも、そのような事態を回避するための社会的責任は存在するのである。



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