連載 館長 vs 局長	「公共劇場」へ舵を切る その理念と経営の実際

第七十三回 商店街の八百屋の親父のように。

可児市文化創造センターala館長兼劇場総監督  衛 紀生

90年代になろうとしている頃、来るべきインターネット時代を先取りするマーケティングについての一冊の書籍が出た。ドン・ペパーズとマーシャ・ロジャースの共著『ONE to ONEマーケティング』がそれだ。この時代を画する業績を日本に紹介したのが、私が敬愛し、私淑する当時慶應義塾大学教授だった井関利明先生であったこともあり、発売日を発行元に問い合わせて新宿の紀伊国屋書店で買い求めた記憶がある。その頃、私は日経新聞の経済コラムをスクラップして何回も読み返すのが習わしとなっていて、とりわけて井関先生のマーケティングについての連載コラムは、赤の傍線がいくつも引かれて、紙の色が変色するほど何十回も読み返して、その内容をそらんじられるほどだった。私が「マーケティング理論」に出会い、強い関心を持ってその研究に没頭するようになったのが、その井関先生のコラムだったのだ。この『ONE to ONEマーケティング』は、この種の本では大ヒットとなって、その後「ONE to ONEシリーズ」で、柳の下に何匹も泥鰌がいることになる。

当時、経済学の基礎もなく、マーケティングの基礎理論も知らない浅学の私には『ONE to ONEマーケティング』はかなりの難物であったが、漠とした感想であったが「新しい時代が来る」との予感を持たせるに充分な内容だった。従来のマーケティングは不特定多数に情報を一方向に、まるで川上から川下に、誰が受け取るかもわからない大量の情報を流すのが一般的だったことは否めない。そのためのメディアは、新聞、それへの折込チラシ、テレビ、ラジオ、雑誌など、いわゆるマスメディアであり、「マス・マーケティング」と呼ばれている宣伝・広告が一般的なものだった。私が当時身を置いていた演劇界も、また例外ではなく、ひたすら大量のチラシを配布することに傾注していた。私はそのあり方をみて、子供だった1950年代にあった宣伝広報の方法を思い浮かべては、その非合理性・非効率性に疑問を持っていた。その方法というのは、一機の小型飛行機から数色の色紙に刷られたチラシを大量にばらまくもので、いまはお目にかからなくなったアドバルーン広告とともに、人目につくという点では最右翼の宣伝方法だったのではないか。何しろ大量の情報を家庭の中に垂れ流すテレビの普及まで10年という時間を待たなければならない時代である。

小型飛行機の爆音が遠くから聞こえると、子供たちは一斉に空を見上げる。数十秒後には300メートル程度の低空飛行で飛行機が視界に入り、色とりどりのチラシが宙に舞うことになる。それを子供たちは黙々と追いかけては拾い集める、とただそれだけのことだった。いまにして思えば、なぜ子供だった私たちは歓声を上げて「ビラ」を追いかけなかったのだろうかと不思議になる。青空に描かれる色とりどりの「ビラ」の点描画のような美しさと非日常感に心動かされていたのかも知れない。しかも、その色とりどりの「ビラ」は子供たちのところに滞留してしまうのである。本来は届かなければならない「百貨店のバーゲンセール」や「商店街の催し物」の情報は、親の目には入らないことが一般的だった。あの「神聖な儀式」は子供たちのものだった。

80年代の「小劇場ブーム」のなかで劇場に出掛けるたびに帰りのバックがずっしりと重くなるほどのチラシの束を受け取って、私はあの頃の「ビラ」を思い出すこと頻りだった。「ビラ」とは違って、演劇を観に来ている人間に情報を渡そうとするのだから目的に適った情報提供をしているのだが、その頃の小劇場演劇の観客の多くは出演者の知人友人、もしくは縁者係累の類であり、「新規顧客」を開発する環境としてははなはだ不適なものだった。そのような時に、将来はコンピュータに蓄積されたデータベースで、何処の誰がチケットを購入して、どのような購入履歴があり、どのような情報入手の手段を使っているのかが瞬時に分かるようになり、誰が受け取るか分からない「ビラ」のように対不特定多数を相手にするのではない、特定の、少なくとも限定されたターゲットにアプローチすることが可能になる、というドン・ペパーズとマーシャ・ロジャースの『ONE to ONEマーケティング』での知見には驚いた。疑いを持つほど、それは近未来的なマーケティングを予言した書であると、私は今でも思っている。マイクロソフトから「Windows95」が世界一斉発売される7年ほど前のことである。

次に私の脳裏に浮かんだのが、「これは何処かで見たことのある売り方だなぁ」という思いだった。「いつか見た光景」だと感じたが、しばらくは思い当たらなかった。『ONE to ONEマーケティング』を読了して数ヶ月経った頃に、近所の商店街で比較的遅くまで残っていた八百屋と酒屋が代替わりした時の「これから、大丈夫かな」と感じた時のことを思い出した。70年代の頃である。その頃には酒屋は「量り売り」も店頭での「もっきり」(立ち飲み)もなくなり瓶詰や缶詰などのパッケージ商品のみの商いになっていたが、八百屋はまだ陳列台に野菜や果物や自家製の漬物を並べている昔からの業態で、馴染みのお客との会話が普通に飛び交うような店だった。代替わりは店主の死によってなされたのだが、あの「親父さん」の死は商いにとって相当な打撃だろうと想像した。まだ老齢になった「お母さん」はいたが、私の「大丈夫かな」というのは、若い店主になるのだからむろん店を切り盛りする「労力」のことではなく、「親父さん」の馴染み客との関係のことだった。この際の「関係」とは、「親父さん」が長年かけて積み上げてきた顧客のライフスタイルや嗜好や家族構成などに関する知識に他ならない。それがリセットされてしまうことに私は八百屋の「経営危機」を感じたのだ。

そして、その「親父さん」の馴染み客との「関係づくりと顧客知識」こそが、ドン・ペパーズとマーシャ・ロジャーズの考える「顧客データベース」による「ONE to ONEマーケティング」なのだと気づくことになる。親父さんの頭の中が数十年かけて蓄積されたデータベースであり、半径500メートル程度の商圏の馴染み客の「家族構成」、「ライフスタイル」、「好み」、旬のものに対する態度」などが時系列にインプットされているのである。「蕗の薹」、「伽羅蕗」、「葉唐辛子」、「山独活」、「銀杏」などのその時季にしか店頭に並ばない旬の商品を、それを炊くことなどが家庭の歳時記のように習慣となっている馴染み客のために仕入れて店頭に並べ、その調理法を知らない若い主婦に「○○さんが上手だから聞くといいよ」と人と人をつないで売り上げを伸ばす。まさに「商い」の極意であり、その八百屋は馴染み客にとっての「小さなコミュニティ」だったのである。したがって、どんなにご近所の便利なところに八百屋が開店しても、ちょっと遠い馴染みの店に足をのばしても買い物に行くことになる。まさしく「ONE to ONEマーケティング」の極地である。そして、「商い」する品物・サービスが「共感性」という商品特性を持っている文化芸術であることから、劇場ホールのマーケティングの極意は「八百屋の親父」に尽きると思ったのだ。

経営学の巨人と言われるピーター・ドラッカーも、マーケティングの父と言われるフィリップ・コトラーも、「マーケティングはセリングを不要にする」と言っている。つまり、マーケティングとは「売る」ことではなく、私が良く口にする「売れる環境をつくること」なのであり、「八百屋の親父」はその「売れる環境」そのものなのだと私は思っている。そして、まさしく「カスタマイズ化されたサービス」を提供するのである。大店法以降、どの町にも郊外にいくつかのスーパーがあり、多くの買物客で賑わっているが、スーパーやコンビニはポスシステムでレジの入力が中央の演算センターにデータが集積されて、この町の「売れ筋商品」や季節毎の「売れ筋」が統計数字として出るのだが、その街のスーパーの品揃えはどのスーパーに行ってもほとんど変わらない。どこかのスーパーで仮に食中毒事案などの不祥事があっても、別のスーパーに乗り換えればよいだけのことである。店員は陳列棚に品物を並べるだけの人間で、顧客との「関係づくり」の役割は持っていない。そのような「関係づくりの変数」を限りなく零に近づける経済合理化と効率化によって、スーパーやコンビニが失ったものは計り知れない。「売れる環境」は近くにあるとかの利便性のみなのである。

私が芸術選奨文部科学大臣賞をいただいた贈賞理由は「親子のコミュニケーションを取り戻す目的を持つ『私のあしながおじさんプロジェクト for Family』が軌道に乗り、大きな成果を上げた。そのほか,『まち元気プロジェクト』など、地域の文化資本や資源を活用して、継続的に地域社会の活性化を図っている」というものである。これはアーラに赴任して10年間で積み上げてきた劇場経営の手法に対するもので、その原点は「八百屋の親父」の経営手法であり、マーケティング作法だったのだ。それはおそらく経営合理化とか経済効率化とはもっとも遠くにある運営方法である。しかし、スーパーやコンビニが失った「体温のある」マネジメント手法であり、だからこそ「芸術の殿堂より人間の家」なのである。




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