連載 館長 vs 局長	「公共劇場」へ舵を切る その理念と経営の実際

第五十八回 「啐啄の機(そったくのき)」、変わるなら「いま」しかない。

可児市文化創造センターala館長兼劇場総監督  衛 紀生

「啐啄の機」とは、雛が内からつつく頃合に、母鳥が外からつつく様子を指す言葉で、転じて「得難い時機」という意味合いで使われる。前回の「館長エッセイ」に書いたように、昨年あたりから文化行政幹部たちから軌を一にして「文化予算はもう増えない」という意味の発言が続いており、その真意は経済的にも社会的にも波及効果を生まない、すなわち文化芸術への公的資金の投入が戦略的投資になっていないことへの彼らの「もどかしさ」や「苛立ち」がその発言の裏にあって、公的資金を投入されていることへの芸術団体や劇場音楽堂等の社会的責任経営への意識改革こそが大きな課題なのではないか、と私は分析した。(http://www.kpac.or.jp/kantyou/essay_176.html)

かなり長尺の「館長エッセイ」をようやく書き上げてアップした直後に、日本芸術文化振興基金の基金部が主導してアーツカウンシルが調査分析をした「『トップレベルの舞台芸術創造事業』において各芸術団体がもつ助成に対する意識に関する調査」の結果が発表された。(http://www.ntj.jac.go.jp/assets/files/kikin/artscouncil/toplebel.pdf)
その調査結果にある、税金を原資とする公的資金を受けて芸術活動をしている当事者としての意識の低さにいささか落胆した。「文化予算はもう増えない」と言いたくなる気持ちがよくわかる内容であった。日本芸術文化振興基金が1990年に設立され、芸術活動が助成金を受けることができるスキームができて四半世紀である。にもかかわらず、「保護を受けている」という意識から脱していない調査結果には少々あきれてしまった。公的資金を受けるということに「説明責任」(アカウンタビリティ)があるのは言うまでもない。それは助成機関への「謝辞」や「説明責任」では決してない。タックスペイヤーたる国民・市民へ健全な社会を形成するための「戦略的投資」であることを証し立てる文言でなければならない。「おかげさまで活動が維持できています」的な謝辞を述べて事足れりとする意識はあまりに幼児的である。

この調査結果に対して劇場音楽堂等関係者からは「反面教師」、「他山の石」という反応があった。その意味では、この調査が、あらかじめ公的資金で設置し、運営している劇場音楽堂等の資金調達担当者の意識に働きかけ、文化行政の質的転換の契機になるやも知れぬという期待はしたい。また一方で、全国各地で福祉や教育分野との協働で社会課題と向き合っているアーツNPO関係者からは、「落胆」と「憤り」の感想が私のところに寄せられている。芸術団体は、むろん水準の高い舞台を製作することを結集軸としているわけであり、それがミッションなのは言うまでもないが、みずからの技術がそのミッションのみに反映されるだけではなく、健全な社会構築や社会資本形成にとっても大きな力を発揮するものであるという「自覚」は当然必要であろう。とりわけ地域の劇場音楽堂等の包摂的なプログラムからの要請に応える事業スキームには強く求められる。日本劇団協議会の会長である西川信廣氏は、その提携と連携がこれからの劇団経営には必要であるという提言をしている。

文化行政関係者の一連の発言や日本芸術文化振興会基金部の意識調査が「啐啄」の「啄」(母鳥が外からつつく)であるとするなら、いま求められるのは私たちの側の内からの力で孵化しようとする「啐」ではないか。すなわち、次は私たちが「生まれ変わる」ことであり「変化」することである、と私は強く思っている。私は可児での劇場経営でのアーラのブランディング作業が踊り場になっているので、ここ数年は「変わらなければ」という危機感を持って全国で講演やセミナーをしている。各館の係長クラスまでの若い職員には変わろうとする「啐」を強く感じている。最近では、自分たちの仕事が社会にどのように働きかけているのか、あるいはそれによって自分の仕事が何なのかを実感できる機会を持ちたいとする意欲を感じることがある。現にいくつかの館ではコミュニティへの働きかけのプログラムに積極的に取り組み始めている事例が出てきてはいる。また、一貫して私が主張している「職員の正規化」の動きも、センシティブな内部問題なのでなかなかヒヤリングはしづらいのだか、仄聞するところでは東海地区では3館ほどが非正規職員の正職化への試行が始まっているという。「職員の正規化」などは、劇場を経営する意思決定権者の、劇場サービスをどのように考えるかの経営センスの問題であるから、しっかりとした成果を見込める見通しさえあれば役所への働きかけ自体はそれほど困難を極めるものではない。

先日、富山県氷見市から、本川祐治郎市長をはじめ市長政策・都市経営戦略部の行政職員と市民による12名の視察団がアーラを訪れてくれた。5年後を目途に現在の市民会館を建て替えて、新しい考え方の施設建設を計画しているという。しかもアーラが行っているような包摂型の事業を仕組んだ、市民に歓迎されるような施設を目指すという。3時間を超える視察で、私も1時間半程度のお話をしたが、とても気持ちの良い皆さんだった。とくに市民の皆さんが、それぞれの立場で氷見市を支える活動をなさっていることがうかがえ、大抵のそういう場にありがちな既得権にしがみついて計画を左右するような「文化ボス」的な市民でなかったことに、一種の清々しさを感じた。つまり、「劇場ホールとはこういうもの」という「常識」から発想していないところが素晴らしいと思った。文化の利害関係者が入った市民の委員会にありがちな既得権を主張する雰囲気がなく、また首長の意向を忖度してモニュメントであると同時に利潤をあげて収支を均衡させなければという意識が行政関係者からも感じられなかったのである。そのような悪しき「常識」に縛られないで、まったくの「ゼロベース」でアーラの経営と向きあい、自分たちのまちに必要な施設とその経営のスキームを模索している姿勢が真摯であって、それが私には嬉しかったし、頼もしくも思えた。

この「ゼロベース」で考えるという思考は「常識」にがんじがらめになっている人間にはなかなかできない。劇場経営が戦略的な投資になる、という考えは、「常識」に縛られている人間には到底できないのである。「常識」というものは、過去の経験値によって積み上げられたものであり、過去の価値観の集積である。スタッフォード大学の教授で未来予測学者のポール・サフォーが看破したように「過去に縋り付けば悲しい結末を迎える」しかないのである。ましてや、社会環境はかつてとは大きく変化しているのである。みずからが「変化」しなければ、従来からの経営感覚で運営する施設は過去の遺物となってしまうだろう。「変化」には、摩擦と痛みと苦悩が伴う。しかし、だからと言って懼れてはならない。平易で安全な道を選択することは単なる逃げでしかない。それではこれからの世代に何も残すことはできない。経営とはリスクをとることであり、そのリスクをマネジメントすることであるという原則を忘れてはならない。公立の劇場音楽堂等の意思決定権者は、自分が「タックス・イーター」(個的な利害で税金の無駄遣いをしている人間)になっていないかと絶えず自問するべきである。いまこそ変化するための「啐啄の機」であると私は考える。この機を逃しては、私たちは変わる機会を永遠に失ってしまうのではと私は危惧している。









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