連載 館長 vs 局長	「公共劇場」へ舵を切る その理念と経営の実際

第四十六回 時間を輪切りにすると、地域の文化環境は劇的に変化している。

可児市文化創造センターala館長兼劇場総監督  衛 紀生

私が東京の演劇界に絶望して地域に出たのは90年代の初頭である。12本あった連載の11本を、連載雑誌の編集長と大喧嘩までして中断して地域に出ようとしたのは、演劇が社会化するには、演劇人の多くが演劇で「一旗挙げよう」という野心だけで東京に出て来ているような環境では難しいという私なりの判断があったからだ。「BSエンターテイメントニュース」と「ラジオ深夜便」のレギュラーも降板した。年収は10分の1の60万円を割った。乱暴なことをしたものである。確定申告の時、税務署職員から「大変ですねぇ」と同情される始末だった。

時はあたかも80年代から90年代にかけての「小劇場ブーム」。その火付け役となった「第三世代」という若手の演劇人の括りを、朝日新聞の演劇担当記者山本健一氏と情報雑誌の編集者であった渡辺弘氏(現彩の国さいたま芸術劇場)と70年代の終わりに仕掛けた当事者ではあった私だが、「小劇場ブーム」は、私にとっては結果として鬼っ子だったと言える。芝居が極端な娯楽志向に流れ、ライブとしての面白さが喪失され、また評論家とは呼べない不勉強な演劇ライターの跋扈で「新しいことが良いこと」とばかりに未成熟な才能を無責任にオーバーグランドさせるという風に演劇の外部環境までもが衰弱していったのが、「小劇場ブーム」の実態だった。あの頃に活躍して現在も生き残っている演劇人が極端に少ないことでも、「ブーム」がのちの演劇界に貢献したとは言えないことは明白である。「演劇ライター」もブームの終焉とともにほとんど消えて、別のジャンルの週刊誌ライターになって、いまも素知らぬふりをしてちょうちん記事を書いている。

正直、当時の東京の演劇界のあまりの荒廃には呆れた。「一極集中による多様性の喪失」という悪い面ばかりが露出したというのが感想である。60年代後半「アングラブーム」の頃に、21歳で雑誌『新劇』で劇評連載を始めた私にとっては、「観客の目の欲望に身を委ねる」舞台には本当に愛想が尽きていた。劇場通いの足が重くなったのを憶えている。

その頃に考えていたことが、1940年代末に米国の若い演劇人とニューヨーク大学の演劇科学生たちで始められた「リージョナルシアター運動」のことだった。ブロードウェイ一極集中に危機感を持った若い演劇人と学生が、「脱中心(脱ブロードウェイ)」と「演劇の多様性」を地域演劇に求めたのだ。それをフォード財団が財政面で全面的にバックアップした。その結果として、1950年にはワシントンDCにアリーナステージがジョージワシントン大学の演劇科の教師たちの主導によって誕生し、その3年後には日本でも数回公演をしているミルウォーキー・レパートリーシアターが、地元のアマチュア演劇人たちによって創設されることになる。現在200以上あるとされる地域劇場(リージョナルシアター)の、「脱中心の運動」、「脱一極集中の運動」の初期の成果である。それを俯瞰していて、私の問題意識とこのリージョナルシアター運動のミッションが合致しているのに気付いた。

私はたった一人でこれに類したムーブメントを始めようと大それたことを考えていた。成算があったわけではないし、金もないし、賛同者もいない、というナイナイ尽くしの見切り発車であった。公共政策学、経済学、文化に関わる法律学、マーケティングを含む経営学、行政学、行動経済学などを猛烈に勉強した。「四〇の手習い」である。そして、私が最初に地域に出たのは、1992年の岡谷市であった。9月から11月にかけて市民対象に行われていた劇団離風霊船の「カノラ演劇ワークショップ」である。彼等は人家のない山のキャンプ場のバンガローにレジデントしていた。私は2回にわたって数日間彼等と寝食を共にして、そのあらましに付き合った。唯一残しておいた連載である雑誌『テアトロ』の「50―50(フィフティ・フィフティ)」にその報告を書いた。それ以降、地域で取材した報告はすべてこの連載に掲載することになる。そして、その一部が1997年に『芸術文化行政と地域社会』としてまとめられて、地域と文化に関する最初の著書となった。「年収60万」からの脱出はこの本が出版されて以降となる。3年間の赤貧生活であった。

それからは、全国各地を毎月3ヵ所程度の頻度で巡ることになる。40代後半には全国都道府県で行ったことのない地域はなくなるほどであった。あるときは自治体に飛び込みで行って、怪しまれながらヒヤリングをして資料を手に入れ、あるときは劇団のレジデンスに付き合って彼等と寝食を共にして取材したり、また何回か取材に通っているうちにその施設のアドバイザーとして委嘱されたりと、様々な出来事と、多くの人たちとの出会いに恵まれた。経済的に一番貧しい時期に、一番豊かな出会いに恵まれたということである。のちにNPO法人になる舞台芸術環境フォーラムを設立して、3ヶ月に一度私塾をひらいて地域の情報を行政関係者、企業メセナ関係者、研究者、学生たちに報告したりもした。

地域に出て間もなくの93年に行った長崎市で、私は一人の少女と出会うことになる。長崎駅前の社会福祉会館で毎週土曜日に一時間だけ稽古をする、自閉症児や学習障害児たちの「のこのこ劇団」にいた「あゆみちゃん」である。彼女は当時小学校四年生で、多動性障害のために学校ではいじめに晒され、教師からも問題児とされていたそうだ。お母さんは「しつけが悪い」とされコミュニティで孤立していると聞いた。劇団の子どもたちは「変化」に対してはパニックを起こす。その意味では、私は彼女たちにとってはよそ者であり、まさしく「変化」そのものだった。なのに、一人の子どもが私に対してコミュニケーションをとろうと近づいてきた。それが「あゆみちゃん」との最初の出会いだった。

彼女との付き合いは3年間にもなった。そして、「あゆみちゃん」が中学生になる時、「もう演劇をやめる」と言い出した。指導していた劇団休憩時間の主宰者で、作業療法士としても彼女たちに関わっていた川口淳一さんが理由を訊くと「中学に入ったらクラブ活動をするから」ということだった。私は演劇の持っている力に驚愕した。クラスで孤立していた女の子が、人間関係のるつぼとでも言うべきクラブ活動をやるというのだ。私がそれまでの25年あまり携わってきた演劇は何だったのか、と匕首を喉元に突き付けられた気分だった。毎日劇場に出かけて、芝居を見て、書いたり喋ったりする私の仕事は、いったい何だったのか。演劇全体のほんの一部分に触れていただけではなかったのか、と自責の念にかられた。ここでの体験がのちの「神戸シアターワークス」での震災時のコミュニティ活動に結び付くことになる。現在でも、私が地域劇場の社会包摂活動を重視する契機は、まさに「あゆみちゃん」との出会いである。その衝撃が私にいまでも社会包摂活動を重視させているように思う。

前述した『芸術文化行政と地域社会』の中で私は、レジデントシアター構想を立ち上げ「教育機関・福祉施設・保健医療機関との連携」を必須事業として列挙していたのだが、それが認知されるまでにはおよそ20年の時間が必要だった。これらの機関と施設が劇場のコミュニティ・プログラムの対象として認知され、一般的に挙げられるようになったのは、ここ4、5年のことである。阪神淡路大震災の折に組織した「神戸シアターワークス」は、「仮設住宅の中高年のコミュニティ形成」と「被災した子供たちの心のケア」をミッションとしていたのだが、地元のアマチュア劇団からは彼らのチケットを買わないからと「売名行為」と罵られ、東京の若手演劇人からは「演劇をそんなことに使うなんて邪道」と大声で非難を浴びた。

2000年を過ぎたころからコミュニティの健全化に資するこのようなプログラムが認知され始めたが、「福祉・保健医療」はまだ埒外だった。文化芸術の社会包摂機能を認めた2011年の「第三次基本方針」、翌年6月の「劇場法前文」、さらに昨年の3月の「大臣指針」によって、これらのコミュニティ・プログラムは完全に社会的認知を得た。それまでには実に多くの時間を費やさなければならなかった。

しかし、こうして思い起こしてみると、1990年代、2000年代、2010年代を輪切りにすると、文化芸術と社会との関係は大きく変化しているのが歴然となる。輪切りにしてみると、実にギアシフトが音を立てて入るように大きく変化してきている。著しく進化している。昨年2月にアーラに視察に訪れた英国芸術評議会の演劇ディレクターのバーバラ・マシューズ女史、英国地域劇場界で最も尊敬を集めているマギー・サクソン女史、英国随一の地域劇場であるウエストヨークシャー・プレイハウスのシーナ・リグレイ最高経営責任者が、こぞってアーラを絶賛して、しかもシーナ・リグレイ女史からは彼女の劇場とアーラとの提携を持ちかけられた。10年前には起こるはずのない夢のような話である。「怠らず行かば千里の果ても見む 牛の歩みのよし遅くとも」である。21歳でプロの演劇評論家として連載劇評を書き始めてから46年、地域に出てから22年。その日々は「牛の歩み」のようにではあるが、本当に大きく変化してきた。これからも加速度的に変化していくと考えられる。いや、変化していかなければならない。すべの国民にとって劇場が大切な機関として認知されるまでは、歩を緩めるわけにはいかない。

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