連載 館長 vs 局長	「公共劇場」へ舵を切る その理念と経営の実際

第十五回 市民の「半歩先」を行くということ ― 事業をどう企画するか。

可児市文化創造センターala館長兼劇場総監督  衛 紀生

地域の劇場・ホールが事業をどのように決めて、どの様な仕組みで進めていくかは、非常に難しい課題である。全国の公立劇場・ホールの事業を俯瞰していると、どうしても有名俳優やタレント、名のある演奏者の出演する事業に偏っている。これはこれで致し方ない、というのが私の立ち位置である。有名人というのは一種のブランドであり、そのブランド効果に期待して一人でも多くの観客を動員したいという気持ちの表れだと思うからだ。また、舞台芸術に特有の、その場になってみないと質の良し悪しは分からないという顧客の側に存在する情報の非対称性による「認識の困難性」を克服するうえでも著しい効果はあると考えられる。また、そういう有名なアーチストやパフォーマーを「生」で観たり、聴いたりする機会を遠隔の都市部に出かけなくても保障するのもまた、地域の公立文化施設の社会公共的使命であるとも考えている。基本的人権の一つに数えられる「文化権」の保障である。

だが、それだけに終始していて良いのだろうか、という考えも私にはある。一方では、東京で受け入れられている芸術的なニューウエーブの舞台を地域に持ち込んで、「これを理解しないと時代の趨勢に乗り遅れる」と言わんばかりの上から目線の啓蒙型の事業も割によく見かける。私はそのどちらも当該地域の市民意識に「変化」をもたらすものとはならないと思っている。演劇でも音楽でもダンスでも、舞台芸術を鑑賞するということは、想像力を喚起して「自分だけのたった一つの物語」を創造する行為である。「笑い」、「泣き」、「怒り」、「酔いしれる」などの揺さぶられる感情は、鑑賞する側に起きることであり、舞台の側に起こることではない。寺山修二の至言に「半分は舞台が創り、半分は観客が創る」というのがあるが、それはこのことを指しているのである。その誘発されて起こる感情の揺れが、現実生活や価値観に「変化」をもたらすのである。

したがって私は、事業企画は市民の「半歩先」であるべき、と思っている。一歩も二歩も先に行ったものでは鑑賞者は行きはぐれてしまう。前館長時代に上演された舞台を観て出てきた市民が首を傾げていた、という話を聞いた。確かにその芝居は、期待の若手作家の最新作であり、気鋭の演出家の舞台であったが、東京の専門家筋でも評判は悪く、理解されないものであった。それでも終われば拍手は鳴っているし、観賞者たる市民は理解できないのは私だけなのかとの思いに駆られる。会場に鳴っている拍手は「頭が悪い」の烙印のようなものと感じるであろう。これでは確実に「芝居嫌い」を生み出すことになる。入場料金を払って「お前はバカ者だ」と言われに来るような物好きはいない。それだけに企画と、それに付随する関連企画と市民サポーターの仕組みには相当に神経をすり減らす。想像力と創造力で市民が「変化」を楽しめるようなものを仕組まなければならないからだ。

それでは「ポヒュリズムではないか」という批判はあるかもしれない。しかし私はそうは思っていない。市民が見たい企画、聴きたい企画をマーケティング・リサーチして決めるのならば、それは紛れもない「ポヒュリズム」であり、何の違和感もなく日常感覚で見物できてしまう。ここでいう僅かな「違和感」というものが、想像力と創造力を喚起すると私は考えている。「鑑賞」とはそういうことではないか。テレビに出ている有名俳優やタレントを「見物」するのとは、真反対の自律的な認知行為が「鑑賞体験」なのである。この「僅かな違和感」が、私の言う「半歩先」を意味する。何とも理論化できない「感覚」のようなものだが、私はこの「半歩先」を大事にしている。私も40年以上演劇評論家として生きてきたから、当然「やりたいもの」はある。だが、それを優先させて事業企画を立ててしまったら市民は行きはぐれてしまう。それだけは絶対にしてはならないことと自戒している。「半歩先」はポヒュリズムでは断じてなく、市民の現実や価値観に「寄り添う」ということである。

私が、館長や芸術監督は常勤か、あるいはそれに準ずる勤務実態をそれらの職制の絶対要件であると主張するのは、その土地で生活して、市民の欲求、価値観、現実を体感しなければ、市民に寄り添った企画ひとつ立てられない、という考えがあるからだ。以前あった文化庁の補助制度である「芸術拠点形成事業」は芸術監督を必置要件としていたが、申請各館が挙げてきた芸術監督の大半が非常勤であり、有名演奏家であったりした。私自身がその審査にかかわっていたからおよその実態のおおよそは把握している。西日本の超弩級のホールの芸術監督の勤務実態は月4日程度だそうだ。ほとんどの非常勤芸術監督の勤務実態はその程度だろうと類推する。そのような人物に事業企画を押し付けられる住民はたまったものではない。たとえ有名な芸術家であろうとも、住民を思い遣る社会脳の退化しているアーチストでは、地域にとっては「害」をなす存在でしかない。「劇場法」の論議での中で芸術監督の必置義務が問題視された時期がある。私は「勤務実態」を記入し、証明する書類の提出の必要性を提言したが、市民感覚に寄り添えない芸術監督なら「百害あって一利なし」である。

「市民に寄り添う」ことで可児市文化創造センターala(以下アーラ)は、「創客」という成果をあげている。地域拠点契約を結んでいる劇団文学座の二回公演は、3年連続して毎年ソールドアウトとなっている。可児市に多くのキャスト・スタッフが滞在して製作するアーラコレクション・シリーズでは、たとえば先般行われた『エレジー』八回公演で1617人の観客動員数を記録して3年前の『向日葵の柩』の1601人を更新した。人口10万1500人のまちで、である。この数字は、アーラの商圏を約30万人とすれば185人に1人が『エレジー』を観たことになる。積極的に鑑賞するアクティブ・オーディエンス(能動的観客=顧客基数)は、演劇で200、クラシックで500程度にはなっていると推察している。それ以上に私が成果と思っているのは、クラシックの客が演劇も観る、あるいはその逆の市民が増えて来ていることである。地域拠点契約の劇団文学座と新日本フィルとアーラコレクションとシリーズ恋文の四つの事業をまとめた「ウェルカムホーム・パッケージチケット」や、好み公演のチケット4枚を自身でパッケージできる「アラカルト・パッケージチケット」を発売している影響もあるだろうが、分野横断的に文化に親しむ市民が出てきていることに、私は手応えを感じている。それも「半歩先」をぶれずに守ってきたからだと思っている。

しかし、事業企画を「半歩先」の公演にするだけでは道半ばである、と私は思っている。アーラでは、すべての事業が関連するプレ事業との糸によって複雑に連携している。関連企画と呼んでいるものである。この主な担当部署は、私の初年度に組織改革をして設置した顧客コミュニケーション室であるが、あわせて「演劇丸かじり」、「まるごとクラシック」、「かに寄席」、先述の「ウェルカムホーム」、「アラカルト」の5種のパッケージチケットを組んで発売している影響もある。アーラで鑑賞する経験価値から「物語」を自身で紡げる仕組みとなっているのである。人間は「物語」を紡ぐ存在である。人間関係においても、書物からの知識を得る、舞台鑑賞をするにしても、人間は「物語」を紡ぐ。「物語」を紡ぐこと自体がアーラでの経験価値であり、相互の事業の相乗効果によって、市民の価値観やライフスタイルや現実に「変化」を生じさせているのだ。パッケージされる4つの事業のなかの一本でも市民を行きはぐれさせるものであったら「即退場」になるという緊張感はある。それでもポヒュリズムに陥ることなく、「寄り添う」距離感を保ち続ける作業は非常に難しい。

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